マリーの脳蜜。

ナカムラルビイの脳みそから抽出されたもの

おそらく、創作こけし。されど手記と思想

作り話ですよ。

象の寝息によく似た水色が透明になる、つまり街がイルミネーションで彩られた後の始末、つまり、それはクリスマスの翌日以降を指していて、勿論年末である。
もぬけの殻になる前に、私は幼女を掻っ攫った。それはドン・キホーテでの話であった。
突如として輝き出した私の心のLED!点灯式は少し待っていてね。けれども誰も待っちゃいないし、時間もまた、雨みたいに降りしきるばかりで、止むようなことはないのだ。
道端で子猫を拾うのは許されて、どうして子供を拾うのは事案になってしまうのか?それは子供が子どもになり、障害者が障がい者に変わる前より前のめり気味なトークの素であった。当然味の素は化学物質で出来ていると思うし、いつかの中華飯店で食べた野菜炒めだかなんだかは、ハッカクとアジノモトの味しかしなくて、ひどく舌を傷める原因となってしまった。化学物質アレルギーというやつですね。でもナチュラリストは概ね嫌いです。理由はそう、怖いから。
これは明朝体で書かれていないからといって、明朝に書かれていないわけではない。これは列記とした夜明けの文章だ。その証拠に、松屋の看板が暗闇の中で煌々と光る中でしか書けない文章だと思う。タバコのにおい、煙、朝のコーヒーの湯気が交じって、視界が曇ると、まだ夢の中なのかなあなどという錯覚に陥る。明朝のことは字面が明るい朝であるということから、夜明けっぽいなあと思っていただけのことであるので、その節は、いや、その折は?どうか忘れてほしい。なお、正しい意味合いを知りたいかというと、それは貴様に訊かなくともウィキペディア、或いはヤフー辞書で調べるので結構です。
ところで猫は死ぬと頭蓋骨に十字架を刻むらしい。日本の猫は知らないが、死んだ私の猫は、本来イギリス産まれであるので、キリスト教元来だと思われる。つまり、猫は死んで、肉が朽ち、骨になってようやく何を信仰していたかというのが発覚するのだ。それまでは宗教的な思想に基づくことなく、きやつらは独自によって呼吸を繰り返しにゃあにゃあ鳴いたり、ご飯を食べたりするのだ。キャッツだけに。
私は猫が大好きだ。だから、猫が望むのならば、人間も殺す。猫ちゃんがヤバイ立場になったら、人間を殺す。さしあたって、今のところ生き物を殺してはいけない理由は、悲しいというものが生まれるからだと思う。
人を殺してはいけないのは、見つかると自分も死ぬ可能性があるからだと思う。捕まっちゃったりしてね。
自分も死ぬと美味い飯は食えなくなるし、なにより猫ちゃんとタップダンスを踊ったり、チゴイネルワイゼンを聴いたり、ワイルドサキソフォンを吹いたり出来なくなる。だから、やだ。やだから、バレると困るからあんまり殺さないようにしている。
これだけ命がそこらへんに転がっているのに、そんなありふれた、温泉みたいにあふれた、命、で、一喜一憂しているのが悔しい。だから虫をいじめたりハムスターを殺したり、金魚を痛めつけたりするのでは?少なくとも私はそうだ。
だから、この攫ってきた幼女を、どうしようかなあと思っている。
幼女は、猫ちゃんみたいだと思う。それは、見た目の話だ。
ぽやっとした髪の毛、薄い胸から臍の下までのゆるいアール、思わず抱きかかえたくなる。だから、抱きかかえて、私は街を走った。家に着いて、私を見上げるその瞳の純なカンジ、ポカンとした様、ああ、猫だなあ。
しかしだなあ。
よくよく考えてみれば、人だし猫ちゃんじゃないよね。
しかもドンキで拾ってきたシロモノとくれば、途端に身汚く感じる。何故ならばドン・キホーテ民度が低いしなんか名前も下卑たかんじっぽいから。
見るな!殺すぞ。今夜はステーキ。やったー!リブロース大好き。